感謝することが幸せに繋がるのは、当たり前のことだとだいたいの人が思うだろう。しかし当たり前のことが増えると感謝することを忘れてしまうのが人である。つまり当たり前のことが増えると幸せから遠ざかる。優しい親がいて当たり前、子供が自分の言うことを聞いて当たり前、身体が動いて当たり前、仕事があって当たり前、ご飯が食べられて当たり前、スマホがあって当たり前、他人が自分のことを助けてくれて当たり前など。そこで当たり前という概念を自分から無くしてみよう。そうしたら自分自身の全てが有り難いと思える。ありがとう、と感謝ができる。この世に当たり前のことなんてないと思える人はきっと幸せでいられる。
当たり前のこと
星座のように
過去を振り返って「あのときのあれはそのためだったのか!」って思うことがある。いわばそれは点と点が繋がる瞬間だ。一方で僕の周りでは晴れていれば夜空に点、つまり星がある。星座を構成する一つ一つの星は宇宙の中では決して隣にはなく、実は別々の所で、一つ一つはかなり離れて輝いてる。つまり地球上の僕たちから星を見て、夜空の中で近くの光同士勝手に繋げているのだ。星座と同じように僕たちの点、つまり一つの出来事も、あとから振り返って過去を繋げているのに過ぎないのだ。忘れてはいけないのは繋げるために点を置くのではない。一つ一つの点を大切に、つまり星のように輝かせるように現在の自分、現在までの人生を大事にしていくことが後には繋がっていくのである。
反省文
反省させるために反省文を書かせても意味がないと昔から思っていた。また暴言や暴力を奮った人に対しても注意しても意味がないとも思っている。つまり繰り返されるのだ。それはあくまで悪いことをした人に対しての親や指導者、上司側の気持ちを収めるために過ぎない。その人はもっと根深い怒りや憎しみを持っていて、その一部が表に出てきたに過ぎないからだ。反省文を書かせたところで、それが直るどころか同じようなことを繰り返したり、更に否定的感情を抑え込み、後々暴発させるリスクを高めてしまうのではないだろうか?否定的感情を吐き出すことを、誰も傷つけない形で行っていくことを考えないといけない。自らの反省、つまり内省ができなければ、立派な作文の著者になるだけだ。
悲しみを受け入れる
今日も思い出の沢山ある大切に診てきた患者さんが亡くなった。思えば思うほど悲しい。やればやるほど悲しいことがある仕事だ。しかし人は悲しみに包まれているときは、その悲しみを抑圧してしまうものだ。つまり考えないようにするものだ。しかし自分が悲しみを抑え込もうとすればするほど、他人の悲しみを受け止められない。どうしても他人の悲しみに叱咤激励で返してしまう。だから自分の悲しみをまず受け入れたい。思いっきり泣いたっていいと思っている。自分の悲しみを受け入れたときにこそ、初めて他人の悲しみが受け入れられる。自分が悲しいことを認められたとき、他人に対して優しくなれると信じている。
それでいいんだよ
怒りに任せて、他人を責めて、傷つけるようなことを大切な人に言ってしまったことは誰にでもあるだろう。しかし他人を責めるような人は、だいたい後で自分を責めている。「私は何であんなことを言ってしまったんだろう。私は酷い人だ…」と。しかしそれは度々繰り返されて、いずれ大切な人を失っていく。そして自分は塞ぎ込んだり、眠れなくなったりして、やがて生き辛くなっていく。だったら感情をコントロールをすればいいのに。怒りに任せた言動をしなければいいのに。しかしそれが一番難しい。逆を取って見たら、自分を責めない人は他人を責めないのではないか?怒りや悲しみを感じた自分を責めない。自分は怒っていいし、悲しんでもいい。あらゆる負の感情を認めてあげる。負の感情を抱く自分ごと抱きしめてあげる。自分を責める代わりに「それでいいんだよ」といつも自分に言ってあげる。そうしたら自分も相手も、誰も悪くないって気づける気がしている。