
人生は楽しむためにある。苦しみだって、努力だって、楽しみたい。勉強だって、仕事だって、食事だって、休みだって、準備だって、片付けだって、会議だって楽しめる。何だって楽しい方がいい。褒められたり、報酬を得たり、自慢したり、数字を伸ばしたりするために生きてはいない。今を楽しむことを続けることから始める。そして未来の楽しみの種を今日も撒いておく。
人生は楽しむためにある。苦しみだって、努力だって、楽しみたい。勉強だって、仕事だって、食事だって、休みだって、準備だって、片付けだって、会議だって楽しめる。何だって楽しい方がいい。褒められたり、報酬を得たり、自慢したり、数字を伸ばしたりするために生きてはいない。今を楽しむことを続けることから始める。そして未来の楽しみの種を今日も撒いておく。
他人を責め、馬鹿にして、怒り散らし攻撃をする人はどこにでもいる。攻撃的な人格を持つ人物の周りで生きると、当然攻撃に合い、段々と自分はダメだと思い込む。その苦しみを紛らわせるために、いつしか自分も攻撃的な人格となっていく。それは家庭ではもちろん、職場だって、部活だって派生する。どこかで負の連鎖を終わらせないといけない。自分が攻撃的だと気づいた時点で終わらせるか、攻撃されて心が沈みがちな時点で終わらせるしかない。攻撃的人格者は自分で気づいていない。自分が弱い人物で、いつも防御していないと崩されることを。周りの人たちを攻撃して、自分を守るしかないことを。でもそうではないと言いたい。攻撃は最大の防御ではない。愛こそが最大の防御だと。
結婚を間違えた、子育てを間違えた、仕事を間違えた、なんて言う人がいるけど何に対して間違えた?きっと間違えたって言う人は、何でも間違えているに違いない。振り帰って、今からだって正解にできることを忘れてはいけない。間違えたと思ったらいつでも変えられるのが人生。人生に正解も間違えもない。自分の人生、一つしか答えはないのだから。
大丈夫、上手くいく、何来るないさ、負ける気がしない、神さまがついてる、とばかり言ってた学生時代の友人を「お前は根拠なき自信の男だなぁ」とからかっていた。しかし社会に出て、仕事をして、子供ができて、院長になって、いろんな失敗をしてくるとあいつの根拠なき自信こそがかけがえのない魂だと気付いた。無茶や無鉄砲とは違う。不安で踏み出せない一歩が彼には踏み出せる。自信があるから他人を愛せる。他人を責めない。それこそが根拠なき自信がある証拠。ただ根拠についてはあった気がする。彼が彼自身であったことだ。自分が自分自身であれば、それが根拠のない自信に見えるのだ。根拠なき自信が人を強くする。
起こってしまった過去にどれくらい囚われているのかは、人がどれくらい幸せかの逆バロメーターである。別れた恋人の歌が世の中に溢れているように、我々はどうしても取り返せないことに執着し、後悔している。後悔がエネルギーを奪う。しかしそのエネルギーを今に向けられるかどうかで、その人の生きる力に反映される。過去があるから今がある、過去の事実は変えられないが解釈は変えられる、過去の楽しい思い出を味わって楽しむ、そんな生き方をしたいものである。