院長ブログ

ハナミズキ

2025年4月19日

 桜が散ったと思ったら、ハナミズキの花が綺麗に咲いている。4月頭に満開を迎える桜は新生活のスタートの象徴である。今年も木の下で大きなランドセルを背負った子供たちの記念撮影を至るところで見かけた。開花から散るまでが短期間で、桜を歌ったヒット曲は昔のほろ苦い恋と並べられている。また桜の咲いている頃は、入学や入職、新しい生活に人々は緊張している感じをうける。いつもよりカテコラミンが分泌し、どこかハイテンションである。しかし花びらが道端を白く染めるときには落ち着き始め、新生活のドキドキやウキウキも少しずつ消えてゆくのだ。そして落ち着き始めた4月後半からは、前半には感じられなかった新生活の疲労感や虚脱感を感じ初めて、五月病に進んでしまうこともある。そこで誰もが何度か感じてきたこの後半症状を癒してくれるのがハナミズキなのである。僕はハナミズキに何度も助けられて、力をもらってきた。だからハナミズキが咲くと、毎年勇気が出る。ちなみにキリストの十字架にはハナミズキの木が使われたそうである。


現実を受け入れたら

2025年4月8日

 今日の天気だって、抱えた病気だって自分に起こっている現実である。生んでくれた親だって、自分の顔だって、能力だって現実であろう。自分にとっての現実が不運だと思うことがあるかもしれない。更に他人に起こっている幸運と比べてしまったら、誰だってその不運を何倍にも膨れ上がらせてしまう。人はときに自分にないものを追い求めて苦しみ、自分にあるもの、つまり現実に目を背けてしまう。でもそんなことでは、いつになっても幸せになれない。自分は自分、他人は他人。一見、現実を受け入れることは、自分にとっては不運や不幸と認めることかもしれない。しかしそれができれば、自分にあるものがいずれ見えてくる。そしてあるがままの自分を受け入れられる。あるがままの自分自身を愛せることが一番の幸せである。他人と比べずに、現実を受け入れて、自分にあるものを大切にしている人こそ、自分を愛せて、他人からも愛されるのかもしれない。


俯瞰する

2025年4月1日

 ここぞの集中力や目標に進み、努力することは幼い頃から養ってきた。それには一点を見つめ、思いを込めて行動してきたつもりだ。しかしそのことで、失敗を落ち込みに変えたり、他人とすれ違ったり、自分で自分を追い詰めたりしてきたこともある。そんなときには、なるべく視点を変えようとしてきたのも事実だ。距離的には遠く、時間的には長く、空間的には広く物事を見つめる。そうすればいろんな景色が見える。つまり俯瞰するのだ。自分を客観視しながら、失敗を成功の母に変えたり、他人と気持ちが分かり合えたり、悩みを取るに足らないものにできるのだ。自分以外の人たちに対しても、俯瞰したら見えてくるものがたくさんある。愛や親切だって、相互理解だって気づける。俯瞰する力は自分を幸せにする力と信じている。もちろん年を取ってもつく力であることも間違いなさそうだ。


言ってはいけないこと

2025年3月25日

 僕が医師として大切にしているものは言葉である。それが一生心に残るような言葉になるかもしれない。それを言って何年も経ってから、すっかり忘れていた自分の言葉に感謝をもらうことがしばしばある。言う言葉で人間関係は深まり、勇気や癒しをもらえる。また自分自身も沢山の言葉に助けられてきた。しかし誰かの言葉で傷ついたことも誰もがあるであろう。また言ってはいけないことを言うことで人間関係は壊れる。イライラして暴言を吐けば、どんな関係だって破滅に繋がる。また自分がはしゃいでハイテンションなときに、何気なく発した言葉が他人を傷つけることもある。親子、夫婦であってももちろんである。子供は傷つき、後の人生を狂わせるかもしれない。あれだけ愛し合った2人も、言ってはいけないことを言われた方は心が離れてしまう。言ってはいけないことを言わないことが、親としては子育てに肝要であるし、夫婦円満のコツであろう。そしてそれは人間としての成長の一つであり、豊かな人間関係を作る大切な要素であると考える。


インクレディブル

2025年3月17日

 さいたまマラソンに参加してきた。寒い雨の日であったが、走ると暑くなってしまう僕にとっては好条件だと臨んだ。昔から慣れ親しんだ、さいたまの街の車道を思いっきり走れるのと、家族や職員をはじめ多くの声援をもらえるこの大会は今までの集大成だと思ってきた。前半は快調で自己ベストより速いタイムで気持ちよく走ることができた。しかし後半になるにつれ、右臀部の痛みが発生し、次第にその痛みに引き続き沢山の箇所が痛んだ。何とかゴールできたものの、自己ベストには及ばず少し悔しかった。しかし沢山の応援がもらえたのは力になったのは間違いない。しかも今回は雨の中、大好きな仮装までできた。ミスターインクレディブルというキャラクター。インクレディブルとは信頼できるという意味である。信頼というのは他人だけにするものではない。自分自身を信頼できることが肝要である。僕たちは自他ともに期待をしてしまう。それを結果として裏切ることも多くある。しかし結果を事実として、またあるがままの存在として、自ら受け入れられることが本当に信頼できるということではないだろうか?そんなことを考えて走ってきた。



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