
だいたいの人は頑張っているし、努力もしている。でもしなくてもいい努力をしてしまうし、努力する方向を間違えてしまう。努力というものは、何に対してどのようにするかが大切である。努力して前向きになり、人生を幸せになるものだけにすれば「私だって頑張っています」とか「どれだけ犠牲にしてやってきたと思うの?」とは言えなくなると思う。努力には知恵が必要みたいだ。
だいたいの人は頑張っているし、努力もしている。でもしなくてもいい努力をしてしまうし、努力する方向を間違えてしまう。努力というものは、何に対してどのようにするかが大切である。努力して前向きになり、人生を幸せになるものだけにすれば「私だって頑張っています」とか「どれだけ犠牲にしてやってきたと思うの?」とは言えなくなると思う。努力には知恵が必要みたいだ。
反抗期って多分あった。子供のころに大人たちの言う通りにしてたから、自分が違うと感じることを表現するようになった頃だと思う。そのうち大人になって大人の気持ちが解るようになって収まるものだ。ずっと大人たちの言う通りにしてたら、幾つになっても表現できず、自分の中に憎しみや不機嫌を抱えて生きなければならない。誰の言う通りにもしないし、操作もされないでいい。自分が自分であるために生きているから。そしたら他人も大切にできるから。
他人の期待に添えないと罪悪感を持ったり、逆にその相手まで責め出したり仕出すことがある。よく考えると可笑しなことだが人間心理ではよくあることだ。他人の感情の責任を取らされてきた人はそうなりがち。「〜のせいで気分が悪くなった」とか「〜のために頑張ったのに」と言われてきたのだ。自分の不機嫌を押し付けてはいけないし、他人から押し付けられたらかわすに限る。不機嫌になったら、なった人が自分で責任を取りなさい。
「私は母親だからあの子の気持ちは全て分かる」とか「旦那が考えていることなんて全てお見通しよ」ってよく聞く。でも自分以外の人の気持ちを全て分かる人っていないような気がする。親でも配偶者でも。一人一人全部違うから当たり前。ただ子供や配偶者の気持ちをコントロールしたり、そう考えてて欲しいから言っていると思う。でも分かってくれようとする人がいるって考えると嬉しい。分かろうとすること、分かりたいと思うことが愛の大切な要素。他人の気持ちを考えられる人は愛情深い人。他人の気持ちを決めつけるのは我執の強い人。
子供の頃夏休みって楽しかった。毎日が充実していた。周りの大人たちが楽しい企画を持ち寄り楽しませてくれた。花火やスイカ割りや肝試し、プールや海、野球観戦やお祭り…全て大好きだった。近所のおじさんだって、従兄弟のおじいちゃんだって、普段会えない大人たちが近くにいた。いつしか気がついたら大人になった。あの頃の楽しさがあるから今の自分がいる。あの頃の切なさがあったから時間を大切にできる。何年生の夏休みかは遠い記憶だけど。