生きててよかったって思える瞬間があった。志望校に合格したとき、好きな子と相思相愛だと分かったとき、アメフトの試合で逆転勝ちしたとき、子供が生まれたとき、患者さんの病気が何とか治ったとき、涙を流して感謝を伝えてくれたとき、リタイアしようと思い続けてゴールできたとき、それぞれ思った。もっともっとたくさんあった。悩んで、苦しんで、だけど頑張って成し遂げたときが多いし、他人が自分を大切だと感じたときも多い。よく考えたら毎日ある。美味しいものを食べたり、美しい風景を見たり、素敵な芸術作品を見てもそう感じる。よく考えたら生きててよかったと思うことばかり。生きててよかったと今日も何回か思った。生きててよかったと思えることを続けていくのが人生なんだと思うし、それが幸せだ。今日も生きててよかった。
自分は綺麗だ、頭がいい、成長してます、仕事ができるとアピールが上手な人がいる。またそう人はよく、愛してる、あなたのために、とも言っている。その人はアピールすることで誰かから認めてもらいたいのだ。アピールに失敗すると不機嫌、悲嘆、自暴自棄。認めてもらうための行動は見ていても美しくない。自分のありのままを曝け出す方が美しく、愛は与えることで満たされるものだと僕は思う。成長は自分がアピールする時点で退化するものだとも僕は思う。
「それくらいで泣くんじゃないよ!男だろ!しっかり頑張れよ!」とよく言われた。辛かったり、悲しかったり、悔しかったりしてるのは僕なのに。このように弱っている相手を叱咤激励してはいけない。弱った人に対して、自分の相手に対する欲求を満たそうとして、表向きは励ます。励まされた方は、弱い自分は許されないとストレスを感じ、心を閉ざす。励ますことはいいことであるが、その人の気持ち、性質、タイミング、お互いの距離感などを間違えてはいけない。弱っている相手の気持ちを分かろうとする言葉や態度、そして分かってもらえた安心感こそが何よりの励ましになる。気持ちが前向きとなったとき、つまりやる気があるときこそ、叱咤激励して欲しいものである。
「こんなに愛しているのに」と言われて、自己中心的欲求を満たすために親に操作された子供、恋人、配偶者たちは自己肯定感を失って自己実現に苦しむ。だとすれば「よくできたね、頑張ったね、すごいね」と相手をまず認めて褒める。そして受け入れる。それが愛で、自己肯定感を増すことに繋がる。愛してると思うならば、相手の自己肯定感を高め、自己実現させてあげるべきなのだ。自己実現こそが人間の幸せである。愛してると思う相手が自己実現していることが幸せだと思えることこそが愛であると考える。
僕には沢山の恩師がいる。学校の先生、柔道の先生、大学の教授、医師になってからの先輩医師。多くの教えから自分ができていると改めて思う。先日大好きな耳鼻科の先生が亡くなった。
幼い僕にはその先生が怖かった。テキパキと診察と処置をして、待合室に溢れんばかりの患者さんを次から次へと呼んでいった。自分の順番が近づくと緊張が増し、順番が来て診療台に座ると息を止めて終わるのを待った。右耳と左耳をできるだけテキパキ見せると「いいよ」と言われて診察が終わるとホッとした。先生に診察を受けたのは10回くらいかもしれない。でも今でもよく覚えている。息子を連れて行ったことも2、3回あったが、30年前と同じ風景だった。
先生と同じ大学に合格できたとき、報告に行った。自分のことのように喜んでくれた笑顔だった。医師になってからも困って電話をすると、耳鼻科の疾患をよく教えてくれたし、内科の患者さんをたくさん紹介してくれた。
震災後に、放射線汚染が心配で、生まれたばかりの二男のミルクのための水をたくさん買っていた僕を偶然市中で見かけた先生は、大量のミネラルウォーターを送ってくれた。感謝が止まらなかった。
忘れられないのは、6年前に仕事で悩んでいるときであった。電話で話す機会があった際に「私は外に出られないけど、お会いしたいわ」と自宅に招いて下さった。引退され、療養されていたけど、僕も会いたかった。お互いの近況報告後に、僕の仕事の話を聞いてくれた。その時間はあっという間だった。別れ際、「あなたなら大丈夫よ」って。もともと小柄な身体がさらに小さくなっても、大きくはっきりした声で励ましてくれたのを一生忘れない。それが先生と会ったのは最後となった。
先生は僕の人生の節目で力づけてくれた。僕を支えてくれた大切な恩師、ありがとうございました。