院長ブログ

怒り

2025年5月9日

 怒りは他人を傷つける。怒りに任せた言葉の暴力を受けた人には、心の傷が一生残りかねない。他人の人生を壊す可能性もある。また怒りは自分をも傷つける。自責の念から苦しむし、自分のエネルギーを奪う。怒っている人ほど疲れやすいのだ。そもそも怒りという感情は原始的な感情と考える。他者から身を守るために祖先たちには無くてはならないものだった。だから自分が疲れていたり、ピンチになると怒りやすい。逆に満たされていれば怒らない。何かに感謝しているときも怒らない。もし自分の怒りに気づいたときは自分に優しくするべきだ。そして自分に優しく自分を愛せる人は怒りにくいと考える。怒りに自分をコントロールされずに、怒りをコントロールできる人ほど幸せなのである。


変わらなきゃ

2025年5月2日

 仕事、家族や恋人との関係などで自分が辛くなると「他人は変えられないから自分が変わらなきゃ」って思う。しかしそんな簡単には自分を変えられないのが現実である。変わらなきゃと思うと焦るし、そんな自分が悪いと自責に追い込まれる。心が擦り減る。不幸だって感じてしまう。だったら自分は変わらなくていいと思う。辛くなった自分を優しく、大切に癒せばいい。ありのまま、そのままの自分がいい。自分が自分であればいい。自分をしっかり愛せたときには、他人やものごとの見方や捉え方だけ変えてみればいいから。


中学生の息子

2025年4月26日

 息子の学校の学校公開に出かけた。最近ではあまり話をしなくなり、外食や外出の誘いにもほとんど乗らず、一生懸命作った手料理にも手を付けないこともしばしば。先日誕生日に連れていった旅行でも、「疲れた」以外の感想は得られなかった。笑顔や感謝といった見返りを求めている訳ではないが、少しだけ寂しくなってしまうのはまだまだ自分の成長が足りないかもしれない。しかし彼が少しずつ親から離れて成長した証だと認識できたら、それはそれで嬉しくも思う。どこの親でも経験することであろう。子育ては親育て。僕は彼が成長するとともに成長できてきたであろうか?学校での友人たちとの戯れのなかで最近見かけない彼の笑顔を見て、喜びと安心、そして息子への感謝と自分の勇気をもらい学校を後にしてきた。


ハナミズキ

2025年4月19日

 桜が散ったと思ったら、ハナミズキの花が綺麗に咲いている。4月頭に満開を迎える桜は新生活のスタートの象徴である。今年も木の下で大きなランドセルを背負った子供たちの記念撮影を至るところで見かけた。開花から散るまでが短期間で、桜を歌ったヒット曲は昔のほろ苦い恋と並べられている。また桜の咲いている頃は、入学や入職、新しい生活に人々は緊張している感じをうける。いつもよりカテコラミンが分泌し、どこかハイテンションである。しかし花びらが道端を白く染めるときには落ち着き始め、新生活のドキドキやウキウキも少しずつ消えてゆくのだ。そして落ち着き始めた4月後半からは、前半には感じられなかった新生活の疲労感や虚脱感を感じ初めて、五月病に進んでしまうこともある。そこで誰もが何度か感じてきたこの後半症状を癒してくれるのがハナミズキなのである。僕はハナミズキに何度も助けられて、力をもらってきた。だからハナミズキが咲くと、毎年勇気が出る。ちなみにキリストの十字架にはハナミズキの木が使われたそうである。


現実を受け入れたら

2025年4月8日

 今日の天気だって、抱えた病気だって自分に起こっている現実である。生んでくれた親だって、自分の顔だって、能力だって現実であろう。自分にとっての現実が不運だと思うことがあるかもしれない。更に他人に起こっている幸運と比べてしまったら、誰だってその不運を何倍にも膨れ上がらせてしまう。人はときに自分にないものを追い求めて苦しみ、自分にあるもの、つまり現実に目を背けてしまう。でもそんなことでは、いつになっても幸せになれない。自分は自分、他人は他人。一見、現実を受け入れることは、自分にとっては不運や不幸と認めることかもしれない。しかしそれができれば、自分にあるものがいずれ見えてくる。そしてあるがままの自分を受け入れられる。あるがままの自分自身を愛せることが一番の幸せである。他人と比べずに、現実を受け入れて、自分にあるものを大切にしている人こそ、自分を愛せて、他人からも愛されるのかもしれない。



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